公平性のための詳細な基準づくりの限界
人事制度、特に根幹となる人事評価制度を構築する場合、よく陥る勘違いがあります。それは、「評価制度構築=詳細な基準づくり」と思い込むことです。
a)社員を活性化したい→b)そのためには評価をしなければならない→c)評価は公正にしなければならない→d)そのためには明確な基準が必要だ→e)そのためにはモノサシとして、詳細な評価要素や能力基準を設定する必要がある!…?
このd)まではいいのですが、ここから大抵の場合e)へ短絡的に行ってしまいます。というよりもこれが常識かもしれません。何を見ても何を聞いても、おしなべて同じことを言ってます。ゆえに"これしかない"と信じて、一般的な職能要件書や人事評価表を作成するプロジェクトが始まります。本来は前述のd)の次に、では我が社ではどのような評価制度を導入したらよいのだろうか、というステップがなければいけないのですが、他にも選択肢があることに気づかないため、どうしてもみんながやっているe)の「詳細な基準」を作る方法を採ることになります。たしかに詳細な評価基準を作ることは悪いことではありませんが、これを納得できる制度として採用するには次のような条件があるのです。
(1)処理手順やゴールがほぼ決まっている定型的な仕事であること。
(2)能力の差異や仕事の難易度を明確に数値や文字で表現できること。
(3)兼務や職務分担の偏りがなく、同じ仕事をしている人が多いこと。
逆にこれら条件にあてはまらない職務で詳細な評価基準を作ることは困難を極めることになります。
しかしながら、この条件にあてはまらなくても次のような特別の意図がある場合は、不十分なことには目をつむって一時的に詳細な評価基準を設定する意義があるかもしれません。
(1)とりあえず、社員の優劣の差をつける説明材料が欲しい場合。
(2)会社の意向や行動基準を明示し、それに反する者を排除したい場合。
(3)「社員は会社の言うとおりに動くのが使命」、という企業風土の場合。
文字による基準づくりの限界
中小企業さんにおいて人事制度を整備するうえで一番よく起こる問題は「作ったけれども使えない」ということです。例えば『苦心して幹部で人事評価表を作った。そして1、2回やってみた。ところがどうもおかしい。本当に給与を上げたい人ともう上げたくないと思っている人との差があまり出ない、もしくは結果が異なる。』ということがよく起こります。そしてこの人事評価表は使われなくなるか、使ったとしても経営者は「この評価ではいかん!」と直感的に思い、結果を変えてしまうことが多いのです。また上司も、実は「本当はこれでは評価できない」と密かに思いつつも評価は上司の義務の一つと思って淡々と点(順位)をつける作業を行います。当然、結果は社員に満足にフィ−ドバック(還元)されず、単に形式的に上司が点をつけるだけのものになります。ここまでは本当によくある話です。おそらく人事評価を制度として導入したことのある企業であれば、すべてが経験した道ではないでしょうか。
しかしこれはやむを得ないことなのです。評価基準の文言を満載した評価表とその結果出てくる点数で評価をしようとするしくみ自体が持つ宿命と言えます。つまり「評価基準を文字や数値で表すには限界がある」ということです。微に入り細に入り作り込んだ評価基準であればあるほどこの限界があります。面白いことに世の中は逆で、詳細で精緻な制度が「すばらしい事例」としてよく紹介されています。
人事評価を整備する際、最初に考えるのは「納得のいく評価制度にしよう」ということです。この納得を追求すると大抵、評価は文字による詳細化の方向に走ります。しかし文字表現を誤解のない内容にしようとすればするほど硬直的になる一方で、組織や人間の行動、経営環境は日々変化。それに対応しようとしていろいろなことを盛り込もうとすれば必ず無理が生じます。そして徐々にこのことに気づき、「人事評価表の内容はシンプルにすべきだ」という動きになります。すると今度は逆に「評価基準が曖昧だ」という声が出て完全にジレンマに陥ります。こうして人事評価表は「詳細」と「シンプル」の間をウロウロするか、もしくは実質棚上げとなっていきます。
詳細な評価基準と人事評価(考課)者訓練の限界
能力基準書や人事評価表を整備してくると、次に必ず「評価をする側に問題がある」という話が出ます。そしてまたここで短絡的に「評価をする者の訓練をしなければならない」ということになります。公平性を追求すれば当然かもしれません。しかし、本当にそこが問題なのでしょうか?確かに人によって見方にバラツキがありますが、それを矯正する(正しい見方を教える)訓練を行うことに意義があり、かつ効果が出るものなのでしょうか?
詳細な評価基準を設定し、評価者訓練も実施する。これであれば評価される部下の側から見ても、すべての上司がほぼ同じような価値観で評価をするだろうと一応の期待もできるので、不公平感が少なくなり一種の安心はあるかもしれません。基準がない→情実に流される→不公平なことが起こるかもしれない→横並びの安心できる共通の基準が欲しい→評価する視点も統一して欲しいという流れです。経営者側も詳細な基準があれば公平な評価ができるだろうと思い、労使一致してこの基準づくりと評価の視点の統一へ走ります。この論法は一見、非常に説得力があるため、理想的な環境を作り出してくれるかもしれないとの期待を持たせます。
しかし、実は詳細な評価基準と一般的な考課者訓練というのは、企業が未成熟の段階でしか使えないものです。共通の詳細な基準を設けてそれで人を評価するという方法は自律性が要求されない状態では機能を発揮するでしょうが、そうでない組織ではどうでしょうか。今までの指導例の中で共通して言えるのは、組織が成熟して自律性への期待が高まってくると、この方法はだんだん邪魔になってくることが判ってきました。中には、本来は自律的人材と思われた人が逆にこの制度に枠をはめられて、伸びを止めてしまっていたケースもありました。もったいないことです。
さて、企業が「自律レベル」になると次のような共通の価値観が生まれてきます。
・仕事は与えられるのではなく、自ら創造するもの。
・仕事は人によって目的もレベルも状況も異なる。
・人は「育てる」のではなく、場を提供することによって「育つ」。
・会社に対するロイヤリティ(忠誠)は仕事に対するロイヤリティの一部となる。
・社員は経営の重要なパートナーである。
・自由はあるが自己責任も重い。
このような価値観の中では前述の方法(詳細な評価基準をあらかじめ定めておく)が合わなくなってくるのは自明と思います。このレベルになるとそろそろ「目標管理評価」という制度の導入が検討されることになります。つまり明確にすべき基準が「詳細な評価基準」から「目標」へ変わっていくわけです。ただしこの目標管理評価にも問題が多いため、これも単純に導入するわけにはいきません。
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